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くるみの木集会 8月の報告

8月の家庭集会の報告

家から、道路に出たとたんにジリジリするような猛暑! そのような暑さの中でしたが、8人が1:30には、会場のカフェ・レストランくるみの木に集うことができました。きょうは、初参加の二人の自己紹介でスタートし、開会祈祷の後、190番「静けき祈りの」を賛美しました。

本日のメッセンジャーは、西岡義行牧師です。先生が教会から運んで来てくださった大きな聖書で、それぞれが開いたページは、ピリピ4:10-13です。

「どんな境遇に会っても足る」

 パウロは、どんな境遇に会っても足ることを学んだといいますが、この、「足ること」(アウタルケース)という言葉の背後には、紀元前300年ごろからゼノンによって広げられたストア派の考え方があるとされます。その教えの中心の1つが、「自足」の倫理であった。意のままになる領域とならない領域を判別し、ならない領域(天候、季節、運命、天災など)を受け入れる心、そして意のままになりうる自分の内的世界を制御することが強調される。周りがどんなに混乱しようとも、自ら足りるという安定した内的世界を確立することが成熟した大人であるとしました。
 実際、これが出来ればどんなに素晴らしいかと思います。語り合いの中で、まさに、東京大空襲の中の惨禍の中、逃げ回った体験や、その後の苦しい生活など、足ることがない中で、足ることを学ばざるを得ない現実を知りました。それほどの経験をした方と、豊かな時代の中で、育った方との感覚の違いは、聞けば聞くほど、実感してしまいます。
 もう一つのことは、12節で「秘訣」と訳されていることばが、当時の密儀宗教では、「入信」を意味する言葉であるという事実でありました。「秘儀を通して救いの境地に入る」ことで、どんな境遇にあっても、この地上の様々な現実から逃避して、神秘的な世界に逃避し、超自然的神との合一により、あらゆるものから解放されることを求める神秘宗教は、ピリピの人々に大きな影響を与えていたものでした。それは魅力がありますが、パウロは全く異なる道を示して下さったのです。
 それは、「足ることを学んだ」の意味に隠されています。そこにある「学んだ」は不定過去であり、一回の出来事でその後のありか方が決定的となるような行為をさします。プロポーズに応答するという行為は一回限りであっても、その後の二人の関係を決定付けます。それと同じような経験によって、足ることを学ぶとはどういうことでしょう。それは、パウロがイエスと深い関係が築かれ、それ故に、どんなことがあっても、大丈夫なのだという確信が与えられたと言うのです。
 小さな子は、暗い教会堂に行くのは、怖くて行けないと訴えます。しかし、同じところも、大人と一緒なら行けるのです。どんな状況にあっても、誰かと一緒であれば、その方と契約があれば、「足ること」は可能なのです。それが、主との関係を築くということの中身なのです。

 み言葉を読み、先生のお話を聞き、どんな状況の中でも主と共に歩めば、「足ること」が出来る。心がほっと温かくなりました。

戦火の中、火の粉が飛んできて燃えそうな橋を命からがら渡り、その後も着の身着のままの生活が続いたお話、子どもだと監視の目も甘いからと闇の物資を背負わされたお話・・・・戦争について考える機会の多い、この8月、今、平和であることに感謝し、この平和を守っていくことの大切さも学びました。

先生のお祈りの後、206番「飼い主わが主よ」を賛美し、季節の歌は、「海」を歌いました。

楽しく、賑やかなティータイムの後、9月20日(火)13:30~の集会で会えることを楽しみにお別れしました。


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by kateishukai | 2016-08-25 22:56