9月のクルミの木報告

「台風が来る」との予測の中、9名のメンバーが集まってきました。
夏が終わり、秋を時々感じる朝晩にピッタリな歌 小さい秋を歌いました。
今回は、西岡まり子副牧師から、聖書の格言、箴言の中から「人生で頼りになるもの」についてかたられました。

皆さんは何を頼りに生きていらっしゃいますかとのインターネットでの質問への答えは・・・
一番多い答えは、「自分」でした。例えば・・・
A.頼るべき物は、ただ自分の力あるのみ。・・宮本武蔵
当てが外れてガッカリするより武蔵の生き方で、
誰も当てにしないで日々生きています。
でも、病気や事故を体験し、最後の頼みの自分さえも、頼れないものなのだと気付いた人の答えもありました。
A.ちなみに私はいままで頼ってきたものに裏切られ続けて生きてきましたから、今ではどうでもよくなりました。
ようするに頼れるものが見つかりません。
私たちが、人生の経験を積めば積むほど、頼れるものがないことに気付くのですが。この震源の中では、はばからずに
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:6と言われます。
ここでの「頼る」とは、「自分のすべてを投げかけるよう」な全面的な信頼です。
そんな全存在をゆだねられても、人間だと支え切れません。命の創始者であり、この命に責任を持って送り出し、天(永遠)に迎え入れてくれる存在。この世界を作られた方に頼るのです。
「すべての道で主を認め」るとは、人生で起こる一つ一つのことが、神の導きの中にあることを受け止めます。偶然と人はいうかもしれませんが、運命というか、天からの命でなっているのではないでしょうか。
一つ一つの出来事を認めていく時に、その人生の道のりがまっすぐ(英語では、clear, Straight, smooth)にされていくのです。永遠の国を目指しながら。

次回は10月18日(火)です。

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# by kateishukai | 2016-10-09 08:30

くるみの木集会 8月の報告

8月の家庭集会の報告

家から、道路に出たとたんにジリジリするような猛暑! そのような暑さの中でしたが、8人が1:30には、会場のカフェ・レストランくるみの木に集うことができました。きょうは、初参加の二人の自己紹介でスタートし、開会祈祷の後、190番「静けき祈りの」を賛美しました。

本日のメッセンジャーは、西岡義行牧師です。先生が教会から運んで来てくださった大きな聖書で、それぞれが開いたページは、ピリピ4:10-13です。

「どんな境遇に会っても足る」

 パウロは、どんな境遇に会っても足ることを学んだといいますが、この、「足ること」(アウタルケース)という言葉の背後には、紀元前300年ごろからゼノンによって広げられたストア派の考え方があるとされます。その教えの中心の1つが、「自足」の倫理であった。意のままになる領域とならない領域を判別し、ならない領域(天候、季節、運命、天災など)を受け入れる心、そして意のままになりうる自分の内的世界を制御することが強調される。周りがどんなに混乱しようとも、自ら足りるという安定した内的世界を確立することが成熟した大人であるとしました。
 実際、これが出来ればどんなに素晴らしいかと思います。語り合いの中で、まさに、東京大空襲の中の惨禍の中、逃げ回った体験や、その後の苦しい生活など、足ることがない中で、足ることを学ばざるを得ない現実を知りました。それほどの経験をした方と、豊かな時代の中で、育った方との感覚の違いは、聞けば聞くほど、実感してしまいます。
 もう一つのことは、12節で「秘訣」と訳されていることばが、当時の密儀宗教では、「入信」を意味する言葉であるという事実でありました。「秘儀を通して救いの境地に入る」ことで、どんな境遇にあっても、この地上の様々な現実から逃避して、神秘的な世界に逃避し、超自然的神との合一により、あらゆるものから解放されることを求める神秘宗教は、ピリピの人々に大きな影響を与えていたものでした。それは魅力がありますが、パウロは全く異なる道を示して下さったのです。
 それは、「足ることを学んだ」の意味に隠されています。そこにある「学んだ」は不定過去であり、一回の出来事でその後のありか方が決定的となるような行為をさします。プロポーズに応答するという行為は一回限りであっても、その後の二人の関係を決定付けます。それと同じような経験によって、足ることを学ぶとはどういうことでしょう。それは、パウロがイエスと深い関係が築かれ、それ故に、どんなことがあっても、大丈夫なのだという確信が与えられたと言うのです。
 小さな子は、暗い教会堂に行くのは、怖くて行けないと訴えます。しかし、同じところも、大人と一緒なら行けるのです。どんな状況にあっても、誰かと一緒であれば、その方と契約があれば、「足ること」は可能なのです。それが、主との関係を築くということの中身なのです。

 み言葉を読み、先生のお話を聞き、どんな状況の中でも主と共に歩めば、「足ること」が出来る。心がほっと温かくなりました。

戦火の中、火の粉が飛んできて燃えそうな橋を命からがら渡り、その後も着の身着のままの生活が続いたお話、子どもだと監視の目も甘いからと闇の物資を背負わされたお話・・・・戦争について考える機会の多い、この8月、今、平和であることに感謝し、この平和を守っていくことの大切さも学びました。

先生のお祈りの後、206番「飼い主わが主よ」を賛美し、季節の歌は、「海」を歌いました。

楽しく、賑やかなティータイムの後、9月20日(火)13:30~の集会で会えることを楽しみにお別れしました。


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# by kateishukai | 2016-08-25 22:56

7月くるみの木集会報告

くるみの木家庭集会は、定例では、第三火曜日なのでしすが、今月は、箱根聖会と重なったため、第二火曜日712日に開きました。場所がいつもの二階の部屋でなく一階の部屋でしたが、貸し切りで使わせていただくことができました。そして、一階だったので、たまたまくるみの木に来られたS兄も飛び入りで参加することができ、神様に感謝しました。学院が、夏休みに入ったので、牧師先生もご夫妻で出席してくださり、10人でみ言葉を学び、味わう時が与えられました。

始めのお祈りの後、233番「驚くばかりの」を賛美しました。

 今回は牧師先生のメッセージです。聖書箇所は、コリント人への第一の手紙13章1節~8節です。題して「14色の愛」。

 この箇所は、愛の章として有名です。前半の箇所は、「もし愛がなければ」について語られています。どんなに素晴らしい言葉も、信仰すらも、さらには慈善行為も、愛がなければ無に等しいと伝えています。驚くことに、聖書は、信仰よりも愛が大切なのだと明確に主張しているのです。実際に、最後まで残るものは、信仰と希望と愛であると伝えています。しかもそれらの中で、最も大いなるものが「愛」なのだと、13節は述べています。愛を失った信仰は、無に等しい(2節)とまでいう、その愛とは何なのでしょうか。
 4節以下をみると描かれています。光をプリズムにかけると7色にわかれますが、愛を人間と言うプリズムにかけると14色の綺麗な光に分かれるかのようです。その一つ一つは実に見事なものです。愛は・・・・
 寛容であり、   
 愛は情け深い。
 ねたむことをしない。
 愛は高ぶらない、
 誇らない、
 不作法をしない、
 自分の利益を求めない、
 いらだたない、
 恨みをいだかない。
 不義を喜ばないで真理を喜ぶ、そして・・・
 すべてを忍び 
 すべてを信じ
 すべてを望み
 すべてを耐える

 最初の色、「寛容」は、人間関係においては、「すぐに判断しないこと」、「決め付けないこと」とあるとある書物で読みました。私たちは、見かけや、服装などで、人を判断したりします。私たちは、最初の色で、つまずいてしまうかもしれません。実際に、5節以下の愛の部分に自分の名前を入れて読み続けることが出来るでしょうか?きっと読み続けられなくなることでしょう。
 そうです、私たちには本当の意味での愛が内側にあるとは言えないのです。それにも関わらず、自分でこれらのリストを懸命に頑張ろうとすることがあります。努力は尊い事ですが、7色をクレパスに塗ったとしても、そこから光が出ては来ないように、14色を自分の力で塗ったとしても、そこから愛が出てくるわけではありません。愛がなければこうした色は出てこないのです。
聖書には、「愛は神から出たものなのである」(1ヨハネ4:7)とあります。私たちは器として、それを受け取ること、プリズムとしてそれを受け取ることが大切なのです。私たちにとって大切なものは、自分で作り出していません。命も、感謝も、愛もです。私たちは、生きているのではなく、生かされているのです。愛することからではなく、愛を受けることから始まるのです。
 愛をもって人々に仕えたマザーテレサは、毎朝神に祈りをささげて一日を始められました。まして私たちは、まず自分には愛がないことを認め、神に祈って、愛の源なる方からの愛を受けて生きる時、そこから何かが始まるのだと信じています。

メッセージの後、先生のお祈り、そして、172番「望みも消えゆくまでに」を賛美し、神様の愛で数えきれない「めぐみ」をいただいている日々であることを感謝しました。

季節の歌は「夏の思い出」、実際に見て来られた方が、「今頃の尾瀬の水芭蕉は、本当に見事でした。」と思い出を語ってくださいました。

ティータイムでは、牧師先生が「この一ヶ月の間に感謝したことがあれば・・・」ときっかけを作ってくださったので、息子さんの大きな手術の前にご両親、息子さんご夫婦がいっしょに、本当に真剣に祈ることができ、今では息子さんも順調に快方に向かっておられるというお話があり、又、交通事故を起こされた方が、いくつもの感謝に恵まれ、無事に自宅に着かれ、思わず膝まずいて神様に心からの感謝のお祈りをされたことなど話され、聞く人たちも共に感謝したことでした。

 又、仏教とキリスト教の違いから、葬儀についての話題など・・・家庭集会だからこそのお話が次々と出てきて、充実した午後のひと時となりました。

来月は第三週が16日なので、8月も第二週目の火曜日9日13:30~くるみの木一階で開くことになりました。


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# by kateishukai | 2016-07-16 22:10

6月のくるみの木家庭集会の報告

6月のくるみの木家庭集会の報告

 6月21日(火)13:30、メッセンジャー西岡まり子師を初めとして8人がカフェくるみの木の2階のいつもの貸切の部屋に集まりました。窓から見える桜の木は、4月は満開の花、5月は新緑、そして今月は、深い、濃いみどり色の葉がびっしり・・・梅雨の雨を十分に吸収して生き生きとしていました。

 メンバーの皆がお互いの気心もわかっているので、和やかな雰囲気の中で集会を始めることができました。

 開会のお祈りの後、新聖歌206番「飼い主わが主よ」を賛美しました。

きょうのまり子先生のメッセージは、箴言の5回目です。


箴言シリーズ 5 知恵の6つの条件Ⅱ

 成功の条件は、誰もが知りたいことでしょう。

箴言3章3,4節には、・・・すれば、神と人の前に恵みと誉とを得る。その成功の条件が示されています。それは、「いつくしみとまこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ」3節とあるのです。

①「いつくしみ」とは、「かわいがる。親が子を愛する。情けをかける。いたわり育てる。または、すべての生物にゆきわたる、広大無辺の愛」と言われます。実はこの箇所では、神のいつくしみを捨ててはいけないと記されています。聖書の神は「いつくしみを千代までもほどこし、悪と咎と罪とをゆるすもの、しかし、罰すべきものをば決してゆるさず、父の罪を子に報いて、3,4代におよぼす者」出エジプト記34章7節と言われます。家系の弱さが継承されることは多いですが、悔い改めるだけで、その罪を赦し、新しい恵みを千代まで注ぐ、いつくしみ深い神なのです。このいつくしみを覚える時、他者に対して少しでもそのいつくしみの心をもって接することができるものとなるのではないでしょうか。

②「まこと」とは、聖書では「誠」ではなく「真実」が使われます。それは「堅固なもの、重荷に耐えるもの、信頼に値するもの、有効なもの、永続的なもの」を意味します。変わることのない約束を必ず守られる神であること。そして信頼を築き上げるその真実さが人間関係で大切であることを示しているのです。

このいつくしみ(恵)とまこととは、新約聖書では、イエスキリストによって示されました。イエスの人生を見る時に、このいつくしみとまこととを知ることができるのです。表面的な成功・誉は、人を高慢に導きますが、内面的な成功・誉は、いつくしみとまこととにあふれる人の中にあるのではないでしょうか。


「いつくしみ」と「まこと」という大切な2つのことばを深く味わい、心に留めることができました。感謝です。

先生のお祈りの後、233番「驚くばかりの」を賛美しました。今月の季節のの歌は、梅雨の真っただ中なので「てるてる坊主」です。元気よく歌っているうちに雨も上がったようです。

 ティータイムでは、日常生活や時のニュース、普段感じていることなど話題は尽きません。気の置けない人たちばかりなので安心して話せるという雰囲気がいいなと感じました。

 来月は第3火曜日は、箱根聖会があるのでくるみの木集会は、7月12日の第二火曜日です。


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# by kateishukai | 2016-07-03 23:29

5月の家庭集会の報告

5月の家庭集会の報告

 場所はいつもの「くるみの木」の2階の貸し切りの部屋です。先月は、大きな窓からまるで日本画のような満開の桜の大木を見ながらの集会でした。5月の集会では、その桜の木が小雨の中で滴るような新緑を見せてくれました。毎月、この大きな窓からその季節ならではの景色を見ることができるのも楽しみです。あいにくのお天気でしたが、まり子師を中心に7人集まることができたことを神様に感謝して集会を始めました。開会のお祈りの後、251番「主イエスの御側に」を賛美し、まり子先生のメッセージです。

まり子先生のメッセージ

箴言シリーズ 5 箴言3章 「知恵の6つの条件」

「長寿の条件」

一つ目の条件は、

「わが子よ、わたしの教えを忘れず、わたしの戒めを心にとめよ」箴言31節、

そうすれば・・・これはあなたの日を長くし命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。」

ここに、人類が追い求めてやまない、長寿の条件が記されているのです。それにしても、なんてありふれた条件なのでしょう。いいえ、「教えを忘れず」「戒めを心にとめる」とは、どちらかというと、戒めで「…しなければならない」とがんじがらめに縛られるようで、平安を増し加えるよりも、束縛と不安を増し加えるように思えますが…。

   箴言での「教え」は、1章の「母の教え」でもありましたように、詩篇12節の「主のおきて」と同義語が使われています。神の与えられたおきて、戒めは、イスラエルの民に出エジプトの後与にえられたものです。このような生活・生き方をすればあなた方は神の民、私の宝となるのだよ、と出エジプト19:3~で語られた言葉です。

   とかく、私たちは、おきてをもってこのようにしなければならないとの「すべき」にコントロールされ、犠牲者意識に支配され、神様が宝のように思ってくださっていることを忘れがちですが、この神様の真意を心にいつも覚えていく時に、平安が増していくのではないでしょうか。

実はこの「平安」、新約聖書で、「救い」との同義語なのです。

平安は、災害、失敗、人間関係のストレスがすべてなくなるから平安なのではありません。その中にあっても、罪深い、禍のある世界にあっても、イエスがあなたを救う、罪から自由にするよ、ただ神の前に悔い改めなさい、と語られるのです。

 神に許され、救われた者の心の平安は、誰にも奪うことができない確実なものなのです。

また、長く生きる長寿も祝福なのですが、旧約聖書では、「永遠の命」をも示します。この体は、限りがあり、弱さも、痛みも、病も、死もあります。この肉体から自由になる永遠の世界の祝福もあるのです。

そうすれば…」とあります。実行してみる時に、その平安が、長寿の幸いが味わえることでしょう。

幸いなメッセージ、そして先生のお祈りの後、190番「静けき祈りの」を賛美しました。今月の季節の歌は、熊本県の被災者の方々に早く「ふるさと」が戻るようにとの願いを込めて「ふるさと」を歌いました。おいしいシホンケーキとコーヒーをいただきながらのフリートーキングは、いつも通り、話題が尽きない楽しいときです。ここでは、何を話しても大丈夫という安心感があるなごやかな大切なひとときでした。

次回は、621()13:30~ 「くるみの木」2階です。


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# by kateishukai | 2016-05-27 21:59