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7月10日の 霞が関集会

7月 霞が関集会 報告

バリアフリーのカフェで6名で、それぞれの近況を語り合い、聖書からはイエスの生涯の幸いになる8要素の内の2つを学び合いました。

第1条マタイ5章3節 ①「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
貧しいとは、謙遜を意味します。経済的、心的にもです。  高慢で、自らがすべて(力も富も名声)をもっていると自負している心とは真逆です。それらのセレブ的な豊かさは、幸いの要素にはならないことをここでは述べられています。
マザー・テレサが、日本は、物質は豊だけれども、心の貧しい国はないといました。心の貧しさ、謙虚さがないからでしょうか。謙虚とは、どんなに自分を低くしているかに注目を集めることではなく、神の恵みに注目することである(マタイ5:16)と聖書は言います。 自然の力、そのもとなる神により頼むこと。そして、その恵を喜ぶこと。そんな当たり前の中で幸いを味わえるのかもしれません。

第2条、悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
聖書の中では、悲しみは大切だと言われます。「悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。」伝7:2-4
時が経っても癒えない悲しみ。人を縛り付けるような悲しみの中には、憎しみが深く根ざしていることがあります。どうして、こんなことが私に起こったのかと。北朝鮮に拉致された娘の帰国の為に働きかけている、横田早紀江さんも、聖書のヨブ記を呼んで、自らの中にあるこの怒りに気づいたときに、悲しみを受け入れ、前進し、苦しみをも糧にしていくことができるようになったと記されています。
実はここで言われている悲しみは、全権者である神の前に、自己中心である自らを悲しむことなのです。自らの縛られた姿を悲しむ。自己中心や、憎しみによって囚われている姿を悲しむことは幸いだとイエスは言われるのです。なぜなら、慰めれられるから。
神の霊である、聖霊は、私たちの心の自己中心の悲しみを教え、そこから悔い改めに導き、赦しを与え、自由へと導かれます。慰め主と呼ばれる神の霊なのです。
 その、神の霊による慰めが皆さんの上にありますことを祈りつつ


by kateishukai | 2018-07-18 03:47